スピノザ

ーー概要
 
スピノザはオランダの哲学者です。ユダヤ神学を学んでいましたが、徐々にデカルトの合理主義に傾倒していき、ユダヤ教を破門となってしまいます。その後は物心平行論を提唱し、物質と心の一体化は神に準じて祈ること(神への知的愛)で成立すると説きました。頂点である神は自然に基礎を置き、その精神界と物質界両方の事象は全て神によって支配されうるものと提唱。神に対する直観を持つことで神への一体化が図られ、恩寵や託宣に預かることができ、これを道徳の最高の理想としました。つまり神へ奉公することが人間が取るべき最高善であることを主張したのです。主著はエチカや国家論など。
 
思想はデカルトに通ずるところが多く、自然学、幾何学およびデカルト新哲学を継承し、異端的な西欧哲学に傾倒していきました。当時のオランダでは専制君主による閉鎖的な社会が構成されており、宗教的権威の主張はおろか政治的参加も許されない世界でした。となれば、スピノザの思想の自由を保証すべきとの目的で刊行された主著の数々は、当時の時代背景もあり匿名で刊行されていました。もし匿名でなければ禁書とされて国外追放された可能性だってあります。それくらい宗教的な権威の力が1つに集中していた時代なのです。当時の宗教的な著書は、ことごとく後世への戒めとなるという理由から「涜神の書」と称して排除されました。
 
ーープロテスタントからの激しい非難
 
スピノザの哲学思想は「唯物論」「無神論」として非難され、キリスト教が多数を占めるオランダにて自然と神を結びつける思想はキリスト教の人格神たりえないもの。精神も物体も全て神の現れ、神たる存在に自己精神を結びつけることで神たる存在の恩寵にあずかることができる。これがスピノザの思想です。要は神に全てを捧げなさい、そうすれば神から救われます、という事。その人間が神に抱く感情を「理性」としてとらえ理性の動きにより神は人間に適切な判断を下す。この最高極致たる神への信仰心を「永遠の相の下に」と定義し、物心両界で板挟み的な役割を果たす存在、それが「神」なんです。
 
神学ではよく「神が人の間に入る」という表現がされますが、まさにこれを体現した例と言えるでしょう。事物と神はつながっており、物心という2つの属性が合わさるとき、それは神自身が創造したものであり、そのひとつなぎに繋がっている2つの様態は神への直観、すなわち人間が神を感じることで成立し、それが人間の最高善であることを説きました。これは神卸自然とも呼ばれ、当時は唯物論者としてレッテルを貼られ非難されました。スピノザの没後、やがて専制君主が崩れ、スピノザの主著に光があたる頃になるとその思想が再評価され、瞬く間に翻訳・刷新されました。
 
こうした神とそれにまつわる事物をひとつなぎに結びつける思想は一元論とも呼ばれ、またの名を汎神論とも言います。その規定は極めて難解であり、幾何学演繹法に立ちそれを神と事物の関係性になぞらえることで論理性や客観性を持たせようとしました。ただ唯物論を展開するだけでは少々強引な思想と考えていたのかもしれません。これは後世のロマン派やドイツ観念論の成立にも深く影響を及ばしました。また、一元論は形而上学的な観念ともとらえられ、アリストテレスの言葉を借用するならば、第一哲学と呼ぶこともできます。簡単にいえば、神が絶対の存在だよ〜ってことです。
 
ーー自己感想
 
難しさ全開の哲学ですが、関連性のあるワードと何かを紐づけて勉強していけば、そこまで難しいことは言っていません。幾何学や数学的なものは置いといて、要はスピノザが提唱した物心平行論は、物質や行動の全ては神の様態(偶然的なもの)により下され、実行されうるもの。ということで神が下した判断に基づいて我々は行動している。神への奉公は人間にとっての「最高善」であり、人間の感情や物質そのものは最終的に神の判断に帰属されうるもの。
 
それを著したのがスピノザの書籍「エチカ」です 人間の直観的意志や思考や知識も、全ては神のみがコントロールしていると。突き詰めれば、神が人間を支配しているということです。哲学は神という言葉がやたら頻出しますが、そこで出てくる疑問が「では神はそもそも存在するのか⁇」です 詳しくは次回で話しますが、神の存在理由について語るのは哲学上私は野暮と考えています。それもこれも哲学の持つ1つ1つのルーツを辿っていけば、おのずと答えが見えてくるかもしれませんね。