難しい哲学の話

ーー哲学を考える前に

 

哲学は非常に難解な単語が多く登場します。何を言ってるのか分からないという人もいれば、結局本質(主張したいところ)が掴めないという人もいます。哲学は多くの学派が存在しますが、それぞれが確固たる定義を持ち、あるいはそれを杓子定規として物事を俯瞰する、という意味では目指すべきところは同じです。

 

もちろん定義にも様々あり、中には定義というよりそれそのものが存在するから定義なんていう前提は必要ない、とする哲学もあります。「〜はこうであるべきだ」という絶対的な存在・本質理由があるからこそ、前提となる定義は必要としない哲学もあります。その数は無限大で、どれから手をつけていいのかわからず、手当たり次第に1つ1つの単語や定義を追っていれば必ず頭が混乱し、より全体像を掴みにくくなります。

 

あくまでその哲学における全体的なアプローチを前提とした専門用語だけをおさえて、そのほかの細かいセグメント化された専門用語は一旦脇に置いてしまいましょう。哲学において難しいのはそういった細かい専門用語の中に、さらにセグメント化(細分化)された定義や基準があり、それを組み合わせて本質を語るものが多いからです。例えば、「神」という絶対的な存在に対して、「なぜ神は神たりえるのか」「神はどのようにして君臨しているのか」といった発想にぶっ飛んでしまうことも哲学を語るうえではザラにあり、それ自身で完結する哲学は少ないからです。もし1つだけの定義に絞ってしまえば、それは自分ファーストな哲学にほかならず、あらゆる定義に理由づけをしてその根拠を強め信用性をより担保することを主流とする哲学においては、1つだけの定義で結論を導き出す行為はバッシングの対象になりうるものです。ということで、今回はその定義に最も近い、少し乱暴ともいえる「自己原因」について触れていきたいと思います。

 

ーー自己原因とは⁇

 

自己原因とは、その事物が事物たりえる原因、つまり外的な理由づけを必要としないものであり、代表的な例として「神や仏」などが挙げられます。スピノザにおいて特に用いられている定義であり、事物はその事物以外に存在がないということから、そもそもそれに「存在する理由」を付すことは不可能であると説いたのです。ちなみに「外的な理由」というのは、実体の持たない神や仏などは「それがそれであるから、理由は本質のそれでしかない(内的な理由)」というもののほぼ真逆と考えてください。

 

例えば、1本の鉛筆にいちいち「この鉛筆はなぜ存在しているのか」と考えたことはないと思いますが、鉛筆にはちゃんとした存在理由があり、「字を書くため」が主目的として挙げられます。また、二次的な使い方として「3DSのタッチペンがわり」という理由づけも可能です。こういった外的な理由が存在し、鉛筆そのものが他への目的に昇華(または作用)される、より高次な次元へと進むことができる、こういった鉛筆そのものの存在が外部に働きかける作用のことを一律に「作用因」と呼び、さらに鉛筆が果たすべき役割そのものを「形相因」とも呼びます。

 

ここで予習します。あらゆるものに存在する理由をつけ、その本質を解き明かしていくという哲学はスピノザの「エチカ」にあたるものです。しかしこれには重大な欠陥点が存在します。それはあらゆる自然の万物(ヒトやモノなど)に定義を付すことができるなら、実体を持たない神や仏に対しても定義づけ可能なのでは?といった反論が出てしまったのです。また、実体を持たないというのは極めてざっくりとした定義であり、それを根拠にして神や仏を「実体を持たないから存在理由を定義するのも不可能である」と導き出すのは少々強引な気がします。実際、神は神たりえる存在であり、その存在理由とは何か?という命題があった場合、人によっては「外界の人を見守ること」「万物をコントロールし制御する」「自然の摂理から生まれたもの」といった定義づけはいくらでも可能です。神を基準としてその他の事物の存在理由を解き明かしていくという哲学は、少し根拠が弱いとさえ思ってしまうんですね。

 

ーー最後に

 

…と、長々と語ってしまいましたが、要するに結論として「自己原因」というのはその存在がその存在たりえるもの、それ以外の理由はないという強引な解釈で帰結したものです。「自己」という単語からして自分や人間のことを含めての定義なのかな?と誤解される方も多いですが、基本的には唯一無二の存在である神様のことを指すことがほとんどです。それと軌を一にする、代わりとなる存在はありません。神という存在が絶対であり、その下に我々人間やモノが存在するという定義こそがスピノザのエチカにあたるものです(デカルト我思う、ゆえに我ありも本質は同じですね)

 

私はまだ哲学を勉強中の身なので詳しいことはわかっていませんが、少なくともスピノザにおいて言えるのは自己が自己としてあり続ける存在は「神」だけであり、神の支配下にある人間やモノは外的な理由によって、その存在を確固たるものにしている。神はそもそも神″そのもの″であるから、「〜があるから神は存在している」といった外的な理由づけはできません。あくまで神は神たりえる存在、という内的な理由に重きを置いてそれ自身がそれであること、定義としては少し弱いと言わざるを得ないですが、哲学の考え方に際限はありません。どんな見方をしても、絶対的に正しい!とされる哲学は存在しないのです。