主観的・客観的

ー概要
 
客観的とはなんだろうか…主観的と対をなす言葉の意味に触れ、比較検証してみようと思う。
 
まず客観的とは、多くの人が認める共通認識であり、了解事項でもある。例えば、デビッドカッパーフィールドのマジックがすごいことは誰もが認めるところだし、ボクサーの井上尚弥が不敗の記録を樹立している事実は誰もが認めるところだろう。これらは主観的では推し量れない、共通の認識であり、そこに第三者の独善的な意見を挟む余地はない。いわば客観的とは、主観では判断できない万国共通の理解であり、決して異論を挟むことなどできないのだ。
 
では客観的な事実であるかどうかをどう判断するか。例えば、会社の知名度を確かめるために顧客アンケートを実施し、「(この会社のことを)知ってる」「知らない」の入力項目を設けたとしよう。このように統計的なデータをもとに数量的に知名度を推し量ることは果たして「客観的」と言えるだろうか。答えはNOだ。まずアンケート自体がそもそも客観的ではない。対象者が10〜70代の男女と仮定したとしても、年代別やユーザー属性に関係なく、その会社を知ってるはずなのに「名前は覚えてなかった」「冷やかし目的で知らないを選んだ」「そもそも興味がなくて答えなかった」等、そこにはユーザーの主観的な要素が多く入るためどうしても客観的な事実を確認することはできない。
 
また、会社がユーザーへの対象年齢を20代限定にしたり、顧客リストを対象にしたアンケートを取ったりと会社側のやり方によってもやはり主観的な要素は入ってしまう。つまり客観的とは、前提として「通念」や「事実」などの了解事項がない限り成立しないものである。統計学的に2つの結果に有意な差は見られなかった場合、それは単に偶然と捉えることもできる。これも主観であり、偶然という曖昧な要素で客観的な事実を裏付けることはできず、たとえ知識に裏打ちされた意見や社会通念上認識されている事実でも、そこに個人の主観が少しでも入れば客観的という言葉は成り立たなくなる。
 
ーネットは主観の塊
 
ネットには多くの情報が転がっているが、ほとんどが自分の経験則や一般論風に装った意見が多く、客観的な事実というものは皆無である。逆にスポニチや経済新聞等、スポーツ中継の様子や日本の経済状況を掲載するメディアは、そもそも主観的な要素を挟むことはできない。全て客観性に満ちた情報なのだ。日本が赤字経済というのは誰もが認める事実であるし、野球やサッカー等のスポーツでも選手の結果は嘘偽りなくありのままに掲載しなければならない。もし実績を偽れば、それこそ経歴詐称でありバッシングの対象であろう。そういう意味で主観的な要素を挟む余地がない事実のことを「客観的事実」と呼ぶし、これを無理やり捻じ曲げることは不可能である。
 
ー例外事項
 
もし客観的な事実を覆す例外があるとするなら、それは当時のエジソンだろう。電気の発明は絶対に不可能とされ、人々から笑いの対象であり、軽蔑の対象でもあった。しかし、エジソンの熱心な研究結果の積み重ねにより、ついに電気の発明に成功したのだ。この「電気を作るのは無理」というのは、当時の人々からすれば当たり前の認識だった。それだけに当時の人々はエジソンの評価を改め、その功績を讃えるようになった。しかし、客観的とは実に曖昧で、例えば男性の平均身長が169㎝というのも何を根拠にそう言ってるのか、あるいはそこを基準として169㎝以下の男性は一律に「低身長」と定義していいものだろうか。背が低い女性からすれば、169㎝の男性でも高く見えるし、ヒールやシークレットブーツを履いた女性なら低いと感じるだろうし、そもそも高身長に恵まれた女性なら物足りなく感じるかもしれない。
 
その人によって基準はコロっと変わるので、たとえ自分軸他人軸問わず客観的な事実を把握することは不可能である。長々と語ってしまったが、客観的といえる場面は、主観的に比して極端に少ない。もし「客観的>主観的」が成り立つ場面が多いのなら、人々は互いに手を取り合い、戦争なんてとっくに和議してるはずだ。主観的な意見が混ざり合うからこそ不和や衝突の原因となり、事態の収拾が余計につかなくなる。それを強く認識してほしい。