若気の至り

若さゆえの無分別な行いは誰にでもあると思います

若気の至りとは、まさに若さゆえに起こりうる無分別な行動を指し、若者を批判する言葉として広く使われています

判断能力や善悪の区別がつかない子どもなどは特に「若気の至り」として処理されることが多いです

1番代表的な例が”いじめ”でしょう

いじめとは囲いを形成し、特定の1人をターゲットに絞り、言葉の暴力や物理的な攻撃を浴びせる、極めて陰湿な行為です

いじめはまさに若気の至りとして処理されるものですが、大人社会でもいじめと似たような出来事は多くあり、まるで子どものときから一切変わっていない大人も存在するんです

パワハラ問題などはまさにいじめのそれであり、労働者の意欲減退や自殺の温床を招いています

これを果たして若さゆえの血走った行為、として定義することはできるのでしょうか?

私はどんな過ちも若さで許される、という風潮が嫌いで、最低でも6〜7歳になれば善悪の区別もつき、良いことと悪いことの判断くらいはわかるはずだと思っています

いじめをする人は善悪の判断さえつかず、自分の感情の向くままにいじめ行為を繰り返しているのでしょうか?

いいえ違います

どこかで「こんなことをやってる自分は異常だ」と心根では思っているはずなのです

しかし、1度いじめを始めるとなかなかいじめをやめられず、「やめたいけどやめられない」という、アンビバレントな心理状態に振り回されて、結局いじめを繰り返してしまう

この場合、若さゆえの過ちというより、自制心そのものが効かなくなっている状態です

「ここでどうしてもやめなきゃ」と自制心が働くのは極めてまともですし、それでいじめをやめるなら、善悪の判断は養われている証拠です

ですが、若さというのはある意味恐怖で、まともな社会経験やモラル、常識といった最低限のルールをわきまえていない若者にとって、善悪の判断というのは意外にも想像しにくいものです

いじめが邪道なのは自分でもわかっている

しかしそれをやめられないのは単なる「若気の至り」という安易な言葉で解決できるような物ではありません

若さゆえに、血走った行動に走ってしまうのはある種仕方ないことでしょう

そこは寛容に見るべきです

ですが、若さという特権を隠れ蓑にし、いじめやパワハラといった行為を繰り返すのは若さというよりそもそもの人間性に問題を抱えていると思うのです

自分でも異常なのはわかっているのに、それをやめられないのはどうなんでしょう

酒やタバコと同じような感覚なのでしょうか?

ダイエット期間中にお菓子やビールを嗜むのと同じくらいの無神経さです

根本的なところを改善しない限り、決して若さというアドバンテージだけで許されるべきものではないとはっきり申し上げます

少年法という法律も、そのことを如実に示している悪法と言えるでしょう

若さという武器⁇があるだけでなんでも寛容に見られるべきなのか?

いじめをされた側は何の罪もないのに一生トラウマを背負ったまま生きていくのか?

いじめをする側が何らかのしかるべき処置を受ければ、少しは”若さ”という特権の行使は抑制できるでしょう

若さは最大の武器、という言い方もしますが、逆にそれを悪用する人が多いのも事実です

そのような言葉の武器が通用するのはせいぜい6歳児までです

それ以降は自分で行動の良し悪しを見極め、間違った行動に走れば正しい方向に軌道修正していく

人間というのは学びと失敗を繰り返してこそ成長する生き物です

若さだけで許される、という風潮はもはや無きに等しいのです