コナトゥス(スピノザ)

ーー概要

 

スピノザの思想は神を根拠とし、あらゆるすべての森羅万象に一定の自然法則が存在するということを軸に据えたもの そしてスピノザの神はただ1つの存在、つまり神は唯一の存在であり、いわゆる日本でいう多神教的な意味は含まない。また、当時のオランダではキリスト教による権威が多くを占めていたため、人格神としての意味を持つキリスト教の考えと神を「自然」としてとらえるスピノザの考えには、大いなるギャップがあった そのためキリスト教派には激しい非難にあい、「唯物論者」「無神論者」なるレッテルを貼られた。なぜこのようになるかと言えば、スピノザの定義する神はあくまで信仰対象ではないことが大きな理由として挙げられた。本題に戻ろう。

 

スピノザは神を「無限の存在」と定義し、神には限界がなく、どこまで突っ切っても神であることを主張した。言い換えれば、神には代替となるものがない。神こそが唯一の存在であり、自然の法則に従い人間は行動している、との教説を提唱した。人間は逆であり、時間軸の流れとともに皮膚は衰え、やがて寿命が尽き死にゆく生き物である。寿命という超えられない限界があるからこそ、「人間は有限の存在である」として表現される。神は寿命が存在せず、常に生き続ける不死の存在である。それは絶えず生成と消滅を繰り返す自然に神が宿っているとされるのだから、その存在を失うことはない。人間は個として生まれ、約80年という人生期間を経て、やがて死にゆく。

 

しかし子孫の繁栄と安寧は、アリストテレスの言葉を借りれば「幸福」であり、それが尽き果てることはない。したがって、神の存在もなくなることはないと、連関的に捉えたのである。これがいわゆる「汎神論」と呼ばれるもの そして人格を帯びるキリスト教の神とは大きく違い、スピノザは信仰という前提を必要とせず、言い換えるなら「外界に居座り続けるだけの存在」と定義し、人間の意志や行動によって裁きを下すキリスト教の神とは一線を画するものとして定義した。

 

ーー「コナトゥス」の定義

 

そして自然法則の1つに、「コナトゥス」というものがある。これはざっくり言えば「人間は人間らしくあれ」という意味であり、それを達成するためには受動的な感情を捨てる必要があると説いたのだ。例えば、あなたは一会社のサラリーマンである。しかし上司に意見したい場合でも「もし意見したら立場が悪くなる」とストップがかかり上司に対して意見するのをとどまってしまう。それは能動的ではなく受動的な感情に振り回されている、いわば自分という存在価値を潰してるのと同じ意味なのである。石ころは石ころとしてあり続けるし、猫は猫としてあり続ける。人間が自我を持つ生き物である以上、受動的な感情に支配されてしまうのは仕方ない面もあろうが、それでは本来の自分の良さをアピールできない。

 

ではそれは神の存在を肯定すれば改善できるのか⁇というのは誤解で、スピノザでいう神は前に述べた通り信仰対象でもなんでもなくただ宇宙規模で支配してる、というだけの意味にとどまる。キリスト教はアダムとイブが犯した原罪を基軸とし、人類はすべて罪を背負いながら生きている、という宿命論を提唱している。そしてそれらはキリスト教への信仰、受礼、回心などにより穢れた心を解消できるとされているがスピノザは決してそうではない点に十分注意されたし。長々と語ってしまったが、スピノザの「コナトゥス」という概念は、現代社会でストレスに打ちひしがれている人間にとっての先進的なアドバイスともいえる。ぜひ自分らしくを大切にし、自分を過度に律することはせず、のびのびと自由に生きる選択肢を取ろうではないか。