自己原因(哲学)

ー概要
 
今日、「スピノザにおける自己原因について」と題された論文を読みふけり、その文章の難しさや意味の複雑さに、頭がクラクラしてしまいました。最後まで読んだ自分を褒めてあげたいくらいです では本題。
 
スピノザの自己原因とは一体どういう意味なのか。それをまずは考える必要があります。
 
自己原因とは簡単に言ってしまえば、「神そのもの」です
 
ええ⁇それだけ⁉︎ と思った方もいると思いますが、これには様々な含みを持ち、単純解釈では終わらないのです
 
「それがなぜ存在するかという原因(あるいは理由)を求め得ないような事物は一つとして存在しない。」
 
これはスピノザ著書「デカルト哲学原理」においてスピノザが述べた一節です。
 
言ってしまえば、存在するもの事物すべてに「それがそれであるという原因ないし理由」をつけることが可能だよ〜という意味です
 
ーー神の存在理由は⁇
 
しかしこれにはある問題点があります
 
それはずばり「神」そのものに帰結します
 
神を根拠とし、その原因や理由づけを行ってきた「神」自身に理由づけは可能なのか、といった疑問です
 
特にこれに深く研究したのがカテルスとアルノーです
 
この2人は神が存在する理由「自己原因」について、2つの意味づけをしました
 
それは「積極的」「消極的」概念です
 
特に大事になってくるのが「消極的」です
 
原因とされる主体(自己原因)やあらゆる被造物に対し「消極的に」という意味を加えることで神の存在理由についての批判をするする〜と避けていったのです
 
具体的に見ていきましょう
 
消極的に、は「それ自体で意味をなし、他から影響を受けない」というもの
 
これを神そのものである自己原因に付け加えるとどうなるか
 
ずばり「神はそれ自体が本質なのであって、他から影響を受けない」という解釈になります
 
いわゆる本質で神の存在を押し切ろうと、少し乱暴ともいえる解釈で説得を試みました
 
しかしこれはロジックが破綻してると言わざるを得ません
 
この乱暴な理屈が通るなら、神そのものが絶対であり人間はそれに従い行動している、という唯物論的な演繹法に終始するからです
 
そしてこれに異を唱えたのがデカルトスピノザです
 
この2人は少々意味するところが違うものの、「神は原因なしで動く存在ではない。外部からの影響(作用因)によって、それがそれであるという認識(形相因)を生み出す」ということを提唱したのです
 
つまり簡単に言えば「神の存在にはちゃんとした原因が存在して、その原因を及ぼすものから飛躍して初めて存在理由を明確にできる」というもの
 
勿論これにも批判はあり、「実体や様態を持たない自己原因に存在理由を求めるのがそもそも無理な話ではないか」というものが特に多くを占めていました
 
デカルトはこれに対し「自己原因」の不可能性を否定しましたが、これもほとんどイタチごっこですね…笑
 
要は神(自己原因)の存在を語るために多くの哲学者がうんちゃらかんちゃらの議論を展開していた…ということです
 
今日はここまでです 最後まで読んでくださりありがとうございました