クマの出没事件

最近クマの出没事件が相次いでいるのをご存知でしょうか?

クマの身によからぬことが起こっている証拠です。

これは行政をあげて、徹底的に取り組むべき課題だと思っています。

まずクマの出没事件が起こるようになった理由の前に、クマの生態系や特徴についてわかる範囲でお話しします。

クマは本州から全土にかけてあらゆる地域に生息する肉食性(あるいは雑食性)の生き物です。

普段は森林や山岳地帯に生息しているのですが、クマはターゲットとなる獲物が不足すると人里に降りて民家を襲ったり、農作物を荒らしたりします。

なぜ森の獲物が減ったのかといえば、それは人間による森林の開発が主な原因でしょう。

木や山を伐採することで栄養源となるクリやドングリなどの餌が摂取できなくなる。

そうすると雑食性だったクマは次第に肉食性に目覚め、人を襲うようになってしまうのです。

今まで餌のない環境下で人間を襲わなかったことが奇跡とも言えるでしょう。

クマは主に夏から秋にかけて収穫期に入り、冬に「冬籠もり」と呼ばれる生体活動の停止に入ります。

その間は体温も落ちますが、外敵からの反応には非常に敏感です。

おそらく秋(ちょうど今)にクマの出没事件が多いのは餌狩りの時期だからでしょう。

クマは田舎の民家が軒を連ねる地域にも以前までは出没しませんでした。

とにかく人間を恐れていたのです。

車が激しく往来する都会は当たり前ですが、田舎の人里に降りてきて人間を襲うようになったのは、人間に対する恐怖心が薄らいできたことも原因の1つでしょう。

それかクマの凶暴化が以前より進んだか。

謎は深まるばかりです。

田舎出身、地方出身の方、なるべく一人歩きは避けて、団体で行動するようにしてください。

また、クマの天敵はずばり「火」です。

マッチやライターなども用意するといいでしょう。

逃げ惑うとかえってクマが味を占めてしまうので、抵抗する意思を見せることも重要です。

クマの凶暴化

クマの異変に気づいたのはつい最近の事です。

クマの様子がおかしい。

北海道から本州にかけて各地に生息するクマの異変に気づいたのはつい最近の事でした。

メディアを見ると、どこもかしこも「クマの出没事件」という文字が躍っている。

これはもしかするとクマの生育地である森林や山岳地帯が減少し、人里にその住処を移す野生のクマが増えたからなのでは⁇と思ってしまう。

クマに限らず、動物には自分の住まう巣穴が必要です。

そして巣穴は基本的に山や森の中にしかなく、市街地や人の多い密集他ではとても巣穴で生活できません。

その生活圏が及ぶのは本州全土。

つまり日本の東西南北を問わず、あらゆる場所にクマの巣穴が存在しているのです。

ではクマの生活圏を脅かす存在とは⁇

それこそまさに人間です。

人間は山や森林を伐採して動物の自然豊かな場所を奪ってきました。

それは地球温暖化の原因にもなっているのですが、クマの出没事件にも密接に関わっている事実なのです。

ペットボトルをマイボトルにしろだとか刺身のトレースを捨てるなだとか、そんな環境保全丸出しのエコロジーを提唱する暇があるのなら、まず人間による自然への破壊行為をやめさせるべきです。

都市開発のためとかもっともらしい理由をつけて自然破壊論を正当化するようなロジックが有識者から一般国民にまで伝播してしまうのは非常に由々しき事態です。

有権者(国民)には「地球温暖化が進んでいる」「海面温度が上昇している」「メタンが増加している」という事実も知らなければ、クマの生育頭数がそれで減っている事実さえ知らない。

これは無知の極み…という言葉では済まされないほど人間という生き物は現在、取り返しのつかないことをしているのです。

水面下では平均気温が40℃超えだのレッドリストの指定種が増えてるだのあらゆる方面での危機は進んでいるのに、人間は自然破壊というエゴをやめようとしない。

クマやその他動物が生きるためには巣穴という生活圏が必要です。

そこをテリトリーとし、受精と接合を繰り返して絶滅しないよう生きながらえてきた動物なのです。

にもかかわらず、人間は進化というごく当たり前のプロセスにあらがい、自然破壊という名の暴挙を続けています。

絶滅危惧種をこれ以上増やして人間だけの世界を作ろうという意思表示なのでしょうか。

だとしたらとても恐怖を覚えます。

私たちは進化の中で、あらゆる動物を捕食したり、あるいは利用したりして生命をつなげてきた生き物です。

動物の犠牲のもとに人間という生き物は今も存在しているのです。

それをあろうことか、今度は用無しと考えた人間たちは、動物の住処までも奪って自分たちの生活圏を広げようと必死になっています。

命あるもの、それは動物であれ等しく尊重されるべき存在です。

人間は目の前の利益や欲望を達成するためには、動物の犠牲もやむを得ないと考えるほどの利己的な生き物です。

最近聞かれるクマ出没事件は、そうした人間へのクマの復讐なのではないでしょうか。

もちろんそれだけに問題を矮小化するわけではありませんし、この事件を容認するわけでもありません。

ただ人間が生み出した弊害からクマの出没事件が増えるようになった…と考えれば、人間も一度原点に立ち返って考え直す必要があるのではないかと、最近はそう思うのです。

 

 

哲学②

哲学に興味を持ち始めた方は、まず自分なりの考えを持つことが大事になってきます
例えば、極端な話、キリスト教圏では神の絶対性、神秘性が重んじられますが、なぜ神に祈るのだろう?と疑問を持つのも自分なりの哲学ということです
キリストでは神への信仰、回心、洗礼により穢れた心を洗い清めるという意味合いを持つため、神に対する祈りは絶対であり、それに異議を唱えるのは反逆者、異端者とみなされます
しかし時代が下り、今では神に対する冒涜論も見られるようになりました
そもそも現在では比較的宗教に対する考えや意見にも寛容になりつつあります
冒涜では乱暴なので、ここでは神に対する「疑問」と言い換えておきましょう
例えば、神に対して「なぜ神は存在するのだろう」「なぜ神は唯一の存在なのだろう」と疑問を持つのは、極めて合理的といえます
実際、神という存在はかなり曖昧です
神への祈りが通じたとき、人は園に立ち、幸せな来世が約束される
そう信じてきた人にとっては死後の世界がより重要なテーマになってくるでしょう
私は死後の世界を信じていません
魂と身体が分離し、しばらくの間、光の世界を彷徨うと言います
いわゆる幽体離脱ですね
しかし過去から現代になるにつれ、宗教において天国や地獄といった世界ではすでに死者で埋め尽くされており、腰を下ろす場所さえないというのが通説です
命あるもの、それは必ず死が訪れます
人間や植物、動物にも、必ず寿命というものがあって、何十年も経てば老化が進行し、やがて死に絶える存在です
それら全てのプロセスが神によって創造された、という考え方はいわゆるキリストの教義に通ずるものですが、例えばモノ(物質)にまで命が宿っているという考え方は、唯物論と呼ばれるものでキリスト教の考えとは少し違います
神が与えた命、老化というアンチエイジングに抗うのは、神が創造した世代交代のプロセスに反するものです
例えば、テロメアという言葉をご存知でしょうか
これは「命の回数券」とも呼ばれるものですが、テロメアは人間の身体の中にある染色体で、末端の配列が短くなるたびに寿命も短くなる、というのが一般的な見方となっています
テロメアが尽きる、という言い方もしますが、これはまさに「寿命が尽きる」という意味と同義なのです
このテロメアというものは一体なぜ存在するのか
人類の謎の1つですが、テロメアが尽き果てるとき、人間の命も果てる…
これは間違いなく言えることですから、テロメアという染色体も、神が人間に用意した命の回数券、そしてこれはがん細胞が増殖するごとに細胞の再生を促します
細胞が再生を繰り返すと細胞の退化が早くなる、という話は聞いたことがあるでしょう
これはまさにがんや糖尿病などの生活習慣病により、人間の免疫が落ち、寿命が縮まるということを示しているのです
このような人間の生命も含め、一体誰が用意したプログラムなのか…
想像はめぐるばかりです

哲学の本流

哲学とは偉大な存在だと思っています

何をいきなり身も蓋もないことを語っているのだと… そう皮肉めいた意見も返ってくることでしょう

ですが哲学には現代の感覚や知性ではとらえきれない、奥深さとユーモアが詰まっているのです

例えば、数学という分野には正解が存在するように、ただ公式や暗号などを覚えてそれを基に演習していく、まさに反復作業と同じなのです

いわばタスク管理やスケジュール管理と同じ定型業務

なんの不定形さもなければ捻りもない、言ってしまえば本当につまらないモノです

しかし哲学にはどんな優れた知の巨人が生み出した考え方や思想があっても、必ずそれに異議を唱えるライバルが現れ、時代とともに哲学の動きは変わっていく

つまり数学のように明確な正解が存在しないのです

正解が存在しないだけに自分の生み出した観念や意見などが尊重される

それを基に論陣を張り、オリジナルの哲学を生み出しても「個々の思想」として尊重され、排除されることはない

何より自分とは異なる様々な思想が渦巻いている世界だからこそ、終わりのない議論に明け暮れ、いつまでも正解が導かれることはない

しかしそれは無限大の好奇心を生むきっかけとなり、終わりなき議論の果てに自分なりの哲学をしっかりと確立することで、人々の生活や暮らしを支える糧になるかもしれない

哲学には社会貢献の意味合いも含まれており、現代社会で暮らす人々に生きる希望と勇気を与えることもできるのが私は1番魅力的だと思っています

例えば、サルトル実存主義は、(WW2)敗戦後の生きる希望をなくした人々に「みなさんの個性は尊重されるべきです。何事にも縛られずに自由に生きようではありませんか」という、「個の独立」としての思想を説いたのです

これは戦後の縛られた生活に四苦八苦する人々に生きる希望と勇気を与え、より個性重視の世界を作り上げました

いまだに学校では集団行動をしなさいだとか、親からはこの仕事に就いてほしいだとか自分ルールを勝手に押し付けるケースも多いですが、明らかにこの思想が出る以前の世界よりは「個を大切にする」という動きは強まっています

自分が生み出した哲学が、ときに人々を救うことだってあるんです

哲学と聞けばニーチェプラトンなどなんだか手の届かない偉大な人の考え方…というイメージがあると思いますが、実際はビジネスでも哲学の考え方は使われていますし、私たちが身近に体験している「モノを見て考える」というプロセスも、前のブログで述べたクオリアという高次の脳機能が関係しています

一寸先は哲学!

これは基本ですから、みなさんもぜひ哲学に興味を持ってくださいね

 

クオリア

クオリアという概念は哲学でよく使われます

感覚的に捉えるクオリアと感覚的には捉えきれない2つのクオリアが存在し、人がモノ(物体)に対して抱く「感覚的なフィーリング」と定義されています

例えば、机に1つのコカコーラが置かれていたとしますが、コーラを見て思い浮かべるのは「机にコーラがある」という当たり前の事象と、「コーラは炭酸が強い」という感覚的なモノに大別されます

「これはコーラだ」というのはある物質・物体を指し示す志向的クオリアに該当し、コーラがコーラである理由を具体的に説明できないことから、一般的に抽象的でとらえどころがないクオリアといえます

一方、「コーラは炭酸が強い」という感覚的なモノは、一般的に説明がつくと思います

私は飲料メーカーの店員ではないので説明できませんが、おそらく炭酸が生まれるまでの製造過程などをうまく説明してくれる人もいるでしょう

これは具体的な説明が前もって可能であり、逆に「コーラがコーラである理由」というのは到底説明がつきません

コーラという存在理由を明かす機会もないでしょうし、なんとなく印象論で語っているモノは具体的な説明を挟むことはないでしょう

例えば、サッカーや野球などメジャーな競技スポーツに対しても「サッカーと野球が存在する理由」なんていちいち考えたことはないでしょうし、逆に「MFがあのときパスしていれば…」みたいに後から理由づけ可能なものは一般的にすべて感覚的なフィーリングに含まれます

理由づけが可能であるかどうか、それが感覚的か志向的かを判断する目安となっています

クオリアは哲学的に使われることはありますが、一般に日常で使われることはまずないでしょう

抽象や概念といった言葉では説明できない曖昧なものに対し理由を求めるほうが野暮なんですね

例えば、リンゴが丸い理由だとか赤く染まっている理由だとか、いちいち人に聞くことはないでしょう

まあ知的好奇心の強い人ならば、どんなことにも理由を求めてきそうですが w

クオリアとは簡潔にいえば「感覚的なフィーリング」のことを指し、個々が抱く印象からなんとなくの結論を導くもの

先ほどのコーラであれば「机にコーラがある」という、あるモノを指し示す際の概念として使われ、自分が抱いた感情や気持ち、心的表象などが、理論的にとらえることのできない感覚的なフィーリングへと昇華していく

その一連の動作を担っているのが脳の神経細胞、おびただしい数が網目状に張り巡らされているニューロンという無数の細胞が頭の処理を担っているのです

少し難儀なネタでしたが、要はクオリアとは「感覚的なもの」「直感的なもの」「曖昧的なもの」ととらえてもらって良いです

 

リクルートの本質

就職希望者を募集し、自分の企業に勧誘する手法「リクルート」の本質はかねてより議論されてきました

なぜなら、就職を目指す若手は何を目指したいのか、どんな仕事をしたいのか等、それぞれ抱いているビジョンが異なるからです

例えば、「部下を指導する人間になりたい」という人がいれば、管理職にあてるのが適切と言えるでしょう

一方、資金の流れやフローチャートなどのお金管理をしたい人であれば、経理が向いていると言えるでしょう

会社の資金はそもそも従業員同士が回すものではなく部長や社長など経営陣の者が主にコントロールするものです

潤沢なお金はどこから転がり込むのか、そのためには吸収と合体を繰り返して会社が持つ土壌を1から積み上げていく必要があるんです

今から経営を始めるスタートアップ企業や中小企業のところは、まず自社が持つ魅力や風土を発信できるよう、求人誌や広報誌に企業成長の過程や現場の様子などをアピールし、デザインやレイアウトなど外見的な要素から求職者を惹きつける必要があるのです

いきなり「弊社は長年の実績と経験があるから安心できるよ〜!」みたいにアピールしても、その実績は目に見える形でアピールしないとなかなか伝わりにくいものです

例えば企業出版という手法を用いるのもアリでしょう

企業を立ち上げた経緯、1から企業をスタートして多くの経営陣や従業員を抱えるまでに至ったプロセスや成長した企業のルールや定款はどのようになっているか等、苦労の過程をまとめればきっと共感は得られやすいはずです

リクルートにおいて1番大事なのは共感性です

自分のイメージと合致するかだけでなく極端な例でいえば企業がどのようにして時価総額10億を抱えるユニコーン企業に成長したのか等、少しでも誇張を交えてまでアピールすれば、聞き手のインパクトには十分です

もちろん誇張のしすぎには注意ですよ!

リクルートは多少盛っても構いませんが、従業員が職場に入っていざイメージと違ってがっくし…みたいな展開にならないよう、入念な企画が必要です

 

パイを奪うとは(ビジネス)

パイの奪い合いとは利益追求の陣取りゲームのようなもの

パイ(利益)とは、そのときに生み出された瞬間的な市場価値のことを言い、初めは花形のブームを呈しますが、やがて新たな商機が生み出されると影を潜め、さながら過去のモノとして扱われるのです

例えば、ケミカルウォッシュという服飾

これはかの光GENGIも愛着した色落ち加工のジーンズですが、一時は爆発的な人気で飛ぶように売れたものです

もちろん光GENGIの人気も凄まじいものがありました(今はその人気もすっかり冷め切ってますが・・)

このように瞬間的なブームとはいえ一世を風靡した歴代のアイテムは、のちに2つの道を歩むことになります

ブームが廃れたまま過去のモノとして放置されるか、年代物やコレクションのように貴重な文化財として保管されるかの2択です

ケミカルウォッシュの場合は後者にあたるでしょう

前者の場合、まさに市場に送り出すための供給が絶たれ、一切陽の目を見なくなるタイプです

最初は希少価値があり、そこいらの図書館でも売られていなかった本などが、BOOKOFFや古本屋でバーゲンブックとして安値で売り出され、その後再出荷(増版・重版など)がされなくなる、これも過去のモノとして「存在すら忘れ去られてしまう」タイプに分類されるでしょう

後者の場合は、例えば歴史を思わせるいわゆる骨董品や昔の出土品など、永遠に埋もれることのない希少価値のあるモノを指します

希少価値が維持されたまま博物館などに展示・保管され、一生モノの財産になるのです

本題に戻すと、パイの奪い合いとは後者の場合ではなく主に前者の場合に適用されるものです

後者はすでにそのモノ自体が財産と化しており、まさに不動の存在です

これを歴史から覆すというのはさすがに無理があるでしょう

今存在するYouTubeやX(Twitter)、Instagramなどの巨大プラットフォーマーに取って代わる機能群を備えた新たなデジタル技術を生み出す、のと同じくらいの無茶振りです

それはfacebookの創業者であり発明者でもあるザッカーバーグAppleを生み出したスティーブ・ジョブズよりもはるかに高度なイノベーション(革命)を起こすと言っているようなものです

それができて初めて「パイを奪えた」と表現できるのですが、果たしてそんな偉業を成し遂げられる逸材が、この世界にはどれだけいるのでしょうか?

すでに人気を確立した絶対的存在のパイを揺り動かすというのは、現実的な問題、無理な話です

1番可能性として考えられるのは、「パイを奪う」のではなく「パイを作り出す」こと。

自分が新たに発明した商品がバカ売れしてパイの座を埋めることができれば、類似した商品からあなたの商品への大規模な顧客の流入・移動が起こり、結果的に「パイを奪う」ことができます

そのためにはあらゆるマーケティングの手段を尽くして、商品を市場に送り出すためのノウハウを身につけなくてはなりませんね